日下部蔦彦は落ち込んでいた。そして普段冷静な少年である彼にしては珍しく、自棄にも似た殺伐とした心境になっていた。そうでもなければ生真面目な彼がこんなところへ来ることはなかったろうし、これから巻き込まれることになる恐ろしい体験も、せずに済んだのだが・・・・・・。
ある金曜日の放課後、高校二年生の蔦彦はいつもと反対方向の電車に乗っていた。どうしても放課後通っている予備校に行く気にはなれず、かといって家にも帰りたくなかったのだ。というのも今度の試験結果は最低で、いつもなら学年で上位二十位以内の蔦彦が百番台にまで落ち込んでしまった、そのため彼は、担任の教師から厳しく叱責されたのだった。
ある悩みが彼の心を支配していた。そのため、勉強に全く手が付かなくなってもうひと月が経っていた。成績が下がるのも当然だった。
担任は、品行方正な優等生である彼の成績が下がったことを、頭ごなしに詰った。生徒の心理状態を心配し、成績が下がった原因を究明することよりも、自分のクラスの平均点が下がり、自らの査定に響くことのみを危惧したからである。繊細な神経の持ち主である蔦彦には担任の利己的な心が解った。そして、その愚かしさに絶望した彼は生まれてからこの方使ったことのないような汚い言葉を吐き、そして更なる担任の激昂を買ったのだった。
校門を飛び出すように後にした彼は、今日こそ自分の悩みに正面から向き合おうと決心し、都心に向かう急行に乗り込んだのである。
彼の心を悩ましていたのは、クラブの一年後輩の男の子、小柄で可愛い「堀くん」だった。奥手で、女の子の手を握ったこともなかった蔦彦。特定のガールフレンドと付き合ったこともなく、とりたてて彼女が欲しいと切実に願ったこともない蔦彦。その彼が、「堀くん」の前では呼吸が早まり、胸が高鳴るのを覚えるのだった。彼自身、自分のこの感情を理解することができなかった。しかし夜毎の夢に「堀くん」が登場し、トランクスを汚してしまう現実を前に、蔦彦は勉強どころではなくなってしまった。夢精しないようオナニーをしてから寝ようとしても、悪友に貰ったエロ本の女の裸ではその気になれず、結局は「堀くん」のことを想い浮かべてイッてしまい、自己嫌悪に陥る有り様だ。しかもなんとか一発抜いてから寝ても、若く元気な健康優良少年である蔦彦には焼け石に水で、結局は殆ど毎朝母親に怪訝な顔をされながら、トランクスを自分で洗う羽目になるのだった。
イクラ純情な彼でも、「ホモ」というものがこの世に存在することぐらいは知っている。学校から電車で三十分のところには「二丁目」という「ホモ」の人が集まる街があるということも、噂に聞いている。彼が苦しんだのは「自分もホモなんじゃないか」という疑問で、やはり「常識的」に考えてみると「同性愛」は「変態」の範疇に入ってしまうし、そう考えると毎日可愛い後輩の男の子(大体男の子のことを「可愛い」と思うだなんて!!)を想い浮かべてオナニーに耽っている自分はおかしいんじゃないか、それどころか完璧に「変態」じゃないか、という悩みだった。普段哲学書もどきを小脇に抱え、年齢の割には「絶対的な価値観」など何もないことを知っているはずの彼でも、いざ自分自身のこととなると冷静ではおれず、「社会通念」や「常識」の呪縛から逃れられないのだ。
そこで彼は、ゲイとかホモとか言われているものがどんなものなのか、はたして自分もそうなのかどうか試してみようと自棄になった勢いもあって決心し、電車に飛び乗ったのだった。
堀靜樹は、クールで早熟な少年だった。吹奏楽部の一年である彼は、既に中学時代からフルートの名手として知られていた。そして自らの美貌の価値に気づいており、それを最大限に利用する術も心得ていた。そうして彼は一年生ながらもクラブ内で独特の地位を築き、誰もが逆らいがたい一種の気品すら漂わせていたのである。
彼は、一年先輩でトロンボーンを吹いている日下部蔦彦が、いつも自分を見つめていることを知っていた。事実、合奏練習の時、蔦彦の視線は顧問の振るタクトではなく、常に「堀くん」の短く刈り上げられた清楚な項(うなじ)に注がれていたのである。
おとなしく優しい蔦彦が彼に対して何もアプローチできないでいることを靜樹はもどかしく感じ、時には思わせ振りな態度をとって蔦彦をからかい、彼がドギマギするのを見て楽しんだりもしていた。
そんな靜樹は自らがゲイであることに早々と目覚めており、そのことで悩むことなどなく、中学時代から「二丁目」に出入りしていた。そして彼も、頭がよく人望も厚い蔦彦に興味を抱いていた。
そういうと二人の間は、相思相愛で何の障害もないように見える。しかしナイーヴで奥手な蔦彦は後輩である靜樹に対して話し掛けることすらなかなかできずにいるし、靜樹は靜樹で女王様然とした高慢な性格が災いして素直になれず、自分から蔦彦に声をかけることなど沽券に関わるような気がして、なかなかできずにいたのである。
かつてこんなことがあった。ある日楽譜を忘れて帰りかけた蔦彦は、顧問に鍵を借りて誰もいない部室に戻った。楽器庫で自分の楽器ケースから楽譜を取り出した彼は、「堀くん」のフルート・ケースが目の前にあることに気づいた。彼はしばしそれを凝視した後、いけないこととは知りつつ手を伸ばし、蓋を開けてしまった。
震える手で「堀くん」の純銀製のフルートを取り出した蔦彦は、指先でそっとマウスピースに触れ、そして唇に当てた。磨き抜かれた銀の冷たい感触が却って靜樹のクールな唇を感じさせ、心臓が早鐘のように打ちだし、血液がペニスに激しく流れ込んでいった。思わず彼は学生服のジッパーを下げ、もどかしそうにトランクスの中から自らの勃起したものを掴み出すと、我を忘れて激しく扱きたてたのである。
彼が大量の濃く熱い樹液を吹き上げて果てたのと同時に、その悲鳴は聞こえた。蔦彦がハッとして振り向くと、セーラー服姿の少女と目が合う。凍りついていた美少女はその瞬間泣き出した。蔦彦と同じ二年生で、靜樹と並んでフルートを吹いている河合茉莉である。
蔦彦は狼狽し、慌てて下半身をジッパーの中にしまいながら、何とかこの場を切り抜ける方法を考えようとした。しかし彼が考えるより先に、少女の方が蔦彦の胸に飛びこんできたのだった。
蔦彦は全く気づかないでいたが、スラッと細身で少年期特有の憂愁を帯びた儚げな彼自身(靜樹に恋焦がれるようになってからの蔦彦は、なお一層の憂愁を滲ませていた。)全校女生徒のアイドルの一人で、その人気は取り巻きに「セイジュ様」と呼ばれている靜樹にも匹敵するものがあった。ミスS校だと男子生徒に人気者の茉莉も密かに蔦彦に想いを寄せていた一人で、茉莉と蔦彦なら吹奏楽部のベストカップルになるだろうと噂されてもいたのだった。
茉莉は蔦彦が握っていたフルートを、自分の楽器だと思い込んでしまった。だから蔦彦の手淫を目撃し激しいショックを受けながらも、彼も自分のことを愛してくれていたのだと思い、嬉しさとショックのない交ぜ状態で泣きながら彼に抱きついたのである。
蔦彦も、自分の腕の中で泣きじゃくる少女を見て、彼女の気持が解った。そして自らの切ない気持と共鳴する部分を感じ、少女の唇に唇を重ねた。蔦彦のファーストキスだった。彼自身、この少女を愛せるかもしれないと錯覚したのだ。
その日からしばらく、蔦彦と茉莉は恋人ごっこを続けた。二人の関係を誰にも悟られないよう密かに逢引することはなかなかスリリングでもあり、蔦彦もこの秘密の関係が本当の愛情によるものだと一時は信じ込んでいたが、しかし「堀くん」への想いが断ち切れる訳もない。蔦彦は彼女を愛していると思い込むことによって、自分がゲイじゃないことを確認したいに過ぎないのだ。
破局はすぐにやってきた。
蔦彦は茉莉と二人きりで過ごすことがじきに苦痛になりだした。茉莉は蔦彦の心が離れつつあるのを悟って何とか彼を繋ぎ止めようと、必死の思いで積極的になっていった。接吻の時に彼女の方から舌を射し入れようとし蔦彦を驚かせ、更には彼女の方から蔦彦を求める素振りさえ見せたのだった。
結局それは逆効果だった。蔦彦は彼女の肉体を欲してはいなかった。いや、女の肉体を欲してはいなかったのだ。蔦彦は茉莉を不潔だと詰り、別れを告げてしまったのである。
茉莉と別れた蔦彦は、やはり自分には女性を愛せないという事実を思い知らされた。そして自分の靜樹に対する感情が恋慕の情であることも、感じつつあった。しかし靜樹が自分に好意を持っているなどとは夢にも思わない蔦彦の悩みは深まるばかり。しかも鋭敏な靜樹は蔦彦と茉莉の関係に気づいており、茉莉と付き合いだしてからの靜樹の態度はそれまで以上によそよそしいものとなっていた。その原因がまさか嫉妬によるものだとは思いもよらない蔦彦は、いよいよ何もできない抑鬱状態になっていった。そしてそれが極限に達した時に、今回の担任との衝突事件が起こったのだ。
新宿駅に降り立った蔦彦は、さすがに真っ直ぐ「二丁目」に行くことは躊躇ってしまった。正直言って怖かった。「二丁目」に行くと生きては帰れない、そんな気すらした。そこで彼はまず、伊賀丹百貨店へと足を向けた。彼は昔からこのデパートの優美なアール・デコ調の建築が好きだったので、それを眺めて気を鎮めようを思ったのだ。
店内を一通り歩き回り、たまに好きなブランドのショップの前で足を止めながらブラブラし、ラルフ・ローレンのツィードの三つボタンジャケットを来月のバイト代で買おうと決心したりするうちに、極度の興奮状態だった彼もやっと少し落ち着きを取り戻した。そうなると今度は、激情のあまり平日に新宿辺りまで出て来たことが後悔された。月一万円の小遣いと、地元の駅前のアイスクリームショップでのバイト代だけで生活している彼にとっては、電車代も馬鹿にならない。そして「二丁目」へ行くことが、ますます恐ろしいことのように思えてきた。
しかしもう帰ろうかと思案して百貨店から出た彼の目に、いきなり「堀くん」が飛び込んできた。「堀くん」は学校帰りの筈なのに学ラン姿ではなく、所々破れたジーンズにスタジャンという出で立ちで、チェックのネルシャツの裾を後ろから覗かせたその姿を、蔦彦はくらくらするほど可愛いと思った。彼は私服の「堀くん」を見るのは初めてだったのだ。
「堀くん」は如何にもこの辺りにはなれた様子で、ちょっと脱色したサラサラヘアーを靡かせ颯爽とデパートの前を横切って行く。それを見た蔦彦は、帰ろうと思っていたことなどすっかり忘れて、思わず後を追ってしまうのだった。
蔦彦が声をかけるかどうか逡巡しながらつけていくうちに、いつの間にか新宿三丁目駅に来てしまった。普段特に親しい訳ではないとはいえ、同じ部活の先輩と後輩である。繁華街でばったり会ったなら、声をかけることは少しも不自然ではない筈だ。それどころか、普段から「堀くん」に話しかけるチャンスを渇望している蔦彦にとって、これはまたとないチャンスだ。自分の中でそう結論し、意を決して「やぁ、堀くん」と自然に話しかけようとした矢先、「堀くん」は地下鉄の駅と繋がっているビッグスビルに入っていってしまった。彼を見失わないよう蔦彦も慌てて後を追うと、彼はエスカレーターに乗ってB1へ降り、そこのトイレに入ってしまったのだ。さすがに蔦彦は、トイレについて入ることはできなかった。そんなところでいきなりあって話し掛けることは、いくらなんでもあまりにも不自然に思えたからだ。
初心(うぶ)な蔦彦にはそこが有名な「発展場」であることなど知る由もなかったし、「堀くん」を追うことに夢中になっている彼には、エスカレーターやトイレの周りに不自然に屯している男達のことなど目に入らない。しばらくして「堀くん」がトイレから出てきたが、それを見た蔦彦は焦って思わず柱の陰に身を隠した。彼はトイレで友人と会ったのか、大学生ぐらいに見えるチャラチャラした軽薄そうな男と連れ立って出てきたのだが、何よりも蔦彦を驚かしたのは靜樹の喋り方だ。学校では無口でクールな彼が、大声で、しかも女のような言葉遣いで喋っているのだ。しかも彼の左耳には、校則違反のピアスまで光っているではないか。
そのショックに愕然となりながらも、蔦彦にはもう彼らの後を追うしかなかった。彼らはもう一度エスカレーターで一階に上ると、今度はビルの裏口から出ていった。続いて出てゆく蔦彦の目に、電柱に取り付けられた「新宿区新宿二丁目」という住居表示板が飛びこんでくる。自分が来ようとしてもどうしても来れなかった街を、愛しい「堀くん」が女言葉を喋りながら闊歩しているという信じがたい現実。もう蔦彦の頭は爆発寸前だった。何が何だか全く理解できず、恐らくは「堀くん」も仲間なんだ、という当然の発想でさえ、今の彼には出来ない。ただただ夢遊病患者のようにフラフラと、彼らの後をついて行くのみであった。
そして「堀くん」と連れの若い男は、あるビルの中に消えてゆく。「High
School Boys」と書かれたその店の看板が、蔦彦のうつろな目にも映った。
街はそろそろ夕刻となり、西口の超高層ビル群が夕焼に染まりつつあった。しばらく放心状態でビルの前に立ちすくんでいた蔦彦にも、段々と状況が飲み込めてきた。それは、彼にとって何とも複雑な心理状態をもたらすものであった。自分自身がゲイであることすらまだ本心では認めたくない蔦彦にとって、可愛い「堀くん」がホモであるらしきこと、しかも「二丁目」のゲイバーらしき店に入っていったということは、喜ぶべきか悲しむべきか判断がつかない。そして「堀くん」と親しそうに振舞っていた軽薄そうな男は彼の何なのかが、無性に気になるのだった。
しばらくは信じがたい現実に翻弄されて茫然自失の態であった蔦彦だが、いつまでもこんなところに突っ立っている訳にもいかないと悟るのに、十分もあれば充分だった。そしてもう一度「堀くん」が入っていった店を見直すと、今度は一人で「二丁目」の街を歩き始めた。
「『堀くん』がホモなんだったら僕もホモにならなきゃ。『堀くん』はもうすっかり馴れている様子だから、年上の僕も良く知らなくちゃ恥ずかしいや。」
という思いが湧き上がるのだった。
ここで彼はもう少し自分を取り戻し、そろそろ帰路に就かないと家族が心配する時間までに帰宅できないことに気付くべきだった。しかし彼は、事実を認識するところまでは冷静になれたが、自分の行動の是非を自問するまでにはなれない。無理もないことだ。そして彼は、「堀くん」の行方を気にしつつも、何かに惹かれるように好奇心いっぱいで、「二丁目」の探険を始めた。
先ほどまで静かだったこの街に、いつの間にか大勢の人間が徘徊している。よく見ると自分とさして変わらない、恐らくは十代であろう若い子も大勢いる。しかも想像していたような怪しげな風体や女装者などではなく、むしろトレンドの先端をゆくファッションに身を包んだ若者が多いことに、彼は安堵すら覚えた。蔦彦は「こんなに沢山仲間がいたんだなんて」と、今まで一人で勝手に思い悩んでいたことがひたすら馬鹿馬鹿しくさえ思えてきた。実際には「二丁目」を歩いている男の全員がゲイというはずもないのだが、彼はまだその区別すらつかず、ただただ未知の世界が眼前に広がるのを、驚きと共に受け入れるのみであった。
行き当たりばったりに「二丁目」をさまよっているうちに洒落たフランス語の名を持つ本屋を見つけた蔦彦は、思いきって中に入ってみた。中には様々なノベルティーグッズと共に壁際には本が並べられ、「Badi」、「薔薇族」、「G―men」などの名が読み取れる。これがホモ雑誌というものかと感動し手に取ろうとして彼は思わず周りを見回すが、ここでは周りも皆仲間で、同じ雑誌を立ち読みしている人間も大勢いる。その事実に意を強くした蔦彦は、まず一冊を手に取ると貪るように読み始めた。
数誌を読み終えた彼は、ガンと頭をぶん殴られるような衝撃で、全身の震えを止めることができなかった。街で感じた以上に彼は、この世界の存在にもっと早く気付かなかったことを激しく後悔した。
「ゲイ」の世界は今まで自分が勝手に想像し嫌悪していたものとは、どうやらすっかり様子が違うらしい。彼はページを繰る毎に目から鱗が落ちる思いだった。文通欄では沢山の同世代の少年が真剣に仲間や友を求めているし、差別と戦っているNGOもあり、エイズ問題を真正面から取り上げた硬派の記事もある。彼は大勢の仲間の存在を感じ、「堀くん」に想いを寄せるようになってからずっと苛まれてきた孤独感から解き放たれる喜びが湧き起こるのを感じずにはいられなかった。
そして、彼だって健康で元気な男の子である。グラビアの美少年の裸体には思わず股間が硬くなり、ゲイビデオの広告を見るとトランクスに先走りのカウパー氏腺液のシミが広がりヌルヌルしてくるのを感じた。免疫のない蔦彦には強すぎる刺激で、正直いって下半身に受けた衝撃は、理性で受けとめたもの以上だった。勃起し膨れ上がった学生服の股間を誰かに気付かれるのではないかと考える余裕もないまま、彼は奥のビデオ売場へと吸い寄せられ、その強烈なパッケージに更なる刺激を受けるのだった。
今までの人生で一度も受けたことのないようなショックと刺激を一日で十二分に受けてしまった蔦彦は、少し座って休みたいと思った。そして、喫茶店でも探そうと思って書店から出ると、妙に尿意を感じる。そこで彼はさっき「堀くん」が入っていったトイレを思い出し、再びビックスビルへと向かった。
蔦彦はビルの裏口から入ってエスカレーターで地下一階に降り、真っ直ぐにトイレに向かった。そして真ん中の個室に飛び込むと洋式便座に腰掛けて、ふーっと溜息をつく。本当に今日一日の出来事は、とても彼にはすぐに処理できないだけの膨大な容量で、頭の中で渦巻いている。何とか整理しようと思っても女のような言葉で喋っていた「堀くん」の姿が脳裏にちらついて、筋道立てて思考をまとめるなんてことできやしない。
彼はチッと舌打ちをすると立ち上がり、ジッパーを下げて小便をした。先端を振って雫を切り、再びしまおうとした時、となりの個室から押し殺したような囁き声と、二人の人間の衣服が擦れ合う音がした。蔦彦が思わず耳をそばだてると、少年と中年のものらしいヒソヒソ声がする。
「前金だよおじさん、解ってるね。あっっ、もう。まだ触っちゃ駄目だってば。」
「解ってるって、ほら。」
「ありがと、おじさん。」
「おじさんおじさんて言うなよ。君はなんて言うの?」
「え、僕? そうだね、タツヤとでも呼んで。」
あまりの異様さに、蔦彦は便座によじ登ると隣の個室を覗き込んだ。するとブレザーの制服姿の少年の怒張した股間を、父親ほどの年齢のスーツ姿の男がネロネロと舐めしゃぶっている最中だった。蔦彦は、思わず喉許まで込み上げてくる叫びを必死で飲み込み、隣室の行為を凝視した。
男は少年のピンク色の肉棒を咥えながら、ブレザーのボタンを一つ一つはずしてゆく。少年は苦悶にも似た表情を浮かべ快感に耐えている。やがて少年のブレザーが扉のフックに掛けられ、カッターシャツも脱がされると、少年の白い上半身が白熱灯の光に浮かび上がる。男は少年の股間から口を離すと立ち上がり、今度は指で乳首をいたぶりながら唇を奪った。しばらく二人はぺチャぺチャと厭らしい音を立てながら舌を絡め合っていたが、やがて男の舌は首筋から耳へ移り、そして乳首をベチャベチャと舐め回し始める。そうする間も男の左手はヌラヌラと照り光る少年の陰茎を玩弄し続け、いよいよタータンチェックのトラウザーズまで脱がしにかかる。少年は男の為すがままで、とうとうビキニパンツまで脱がされ全裸にされてしまった。
しばらくは呆然と成り行きを見守っていた蔦彦はやがて股間が激しく勃起するのを感じ、強烈な性欲の疼きを覚えた。そしてペニスを掴み出し、隣室の行為を食い入るように見つめながら自らをこすり始める。
隣室では便座に手をついた少年のアナルを男がグチャグチャといやらしく舐めまわしている最中で、タツヤと名乗った少年は聞こえるか聞こえないかというぐらいの小さな喘ぎ声を、しかし間断なくあげていた。やがて男はたっぷりと唾液を塗りつけた人差指をゆっくり少年の中に差し込むと、そろそろと出し入れし始める。そして指を二本に増やし肛内を掻き回していたが、いつの間に出したのか赤黒くテラテラと光る巨大な陽根を少年の菊座にあてがうと、ズブリズブリと挿入し始めた。少年の喘ぎ声も一段と高くなる。男は少年の尻を犯しながら片手を前に伸ばし、少年のペニスを弄ぶ。グチュグチュといういやらしい音となんともいえない臭いが、トイレに充満していった。
蔦彦はとりつかれたように隣室の行為を見つづけている。あんな巨大でグロテスクな逸物を見たのも初めてならば(他人のモノを見たことなど殆どない蔦彦だったが)、それを平気で受け入れそれどころか恍惚の表情さえ浮かべ快感に酔い痴れている少年が、彼には信じられなかった。そして男の腰の動きが段々と早まり、やがて獣のように一声うめいた。そして少年の背中に崩れ落ち、激しく喘ぐのだった。少年もほぼ同時に若い樹液を噴出し、それを見ながら蔦彦もまた、熱いほとばしりを撒き散らしていた。
そして反対の個室から蔦彦の自慰を見つめていたもう一人の男がいることを、蔦彦はまだ知らない。
隣室の二人がトイレから出てゆくのを待って、蔦彦も個室から出た。まだ、たった今眼前で繰り広げられた凄まじい光景が現実のことのようには思えず、鏡の前で、上気した自分の顔をボーっと見つめている。
するともう一つの個室の扉が開き、中から若い男がニヤニヤしながら現れた。蔦彦はハッとした。さっき「堀くん」と一緒にいた青年だったのだ。青年は妙に馴れ馴れしく蔦彦の肩をポンと叩き、
「すごいおなにーだったね。」
と言った。「見られたっ!!」という驚きで、蔦彦は言葉を発することもできずに硬直して震え出す。
「何もそんなに怯えなくてもいいよ。まぁこんなところで立ち話もなんだから、ちょっとお茶でも飲みに行こうか。」
そういうと青年はスタスタと歩き出した。言葉尻は優しかったが、青年の態度には有無を言わせぬ圧しの強さがある。蔦彦は他人のセックスを覗きながらの手淫行為を見られた恥ずかしさから、黙って青年について行った。
同じビルの中にある喫茶店で、蔦彦は青年と向き合って座っていた。彼は恥ずかしさとこれから何をされるのか判らない恐ろしさで、蒼ざめたまま俯いている。
「何にするの?」
とオーダーを聞かれても、何も答えることができない。青年はしょうがないなぁと言って勝手に珈琲を二つ注文すると、煙草に火をつけた。
珈琲が運ばれてきても、蔦彦は身動き一つできない。
「怖がらなくていいから、こっちを見てごらん。」
という言葉につられてようやくおずおずと視線を上げると、青年はにっこり微笑んだ。
「『二丁目』に来たのは初めてなの?」
という質問に、彼はコクンと頷く。
「実は本屋で君を見かけて、あんまり可愛いからついてきたんだ。気付かなかった?」
と青年は言った。蔦彦は首を横に振り、
「僕が可愛いんですか?」
と、初めて口を開いた。
「うん、すっごく可愛いよ。だから僕もさっきはびっくりしちゃった。あんなすごいことするんだもん。」
からかうように青年に言われ、蔦彦は真っ赤になってまた俯く。
「ごめんごめん。でも若いんだから当然だよ。君はひょっとしてまだセックスしたことないの?」
そう聞かれ、蔦彦は再び頷いた。
「なぁんだ、まっさらなんだ。ほんとに可愛いなぁ。」
青年は本当に可愛くてしょうがないといった様子で言った。
蔦彦も段々と打ち解けた感情を、この青年に持ち始めていた。最初靜樹と連れ立っているところと見た時には「こいつは『堀くん』の一体何なんだろう?」と勘繰っていた彼なのに、今では「『堀くん』の友達らしいし悪い人でもないんじゃない?」と思い始めていたのだ。
そして蔦彦は、この街にやってきたのも初めてなら、ついさっきまで自分がホモであるとは信じたくなかったこと、そして教師と諍って学校から直接電車に乗ってやってきた、更には後輩に片想いしていることなどを話した。しかしなぜだか「堀くん」の名を出すことは憚られ、彼が「堀くん」とどういう関係なのか聞くことができない。
青年は一通り蔦彦の話を聞き終わると、
「なぁんだ、好きな子がいるんだ。残念だなぁ。」
といった。
「でもまぁ友達にはなってくれるだろ?」
という彼の言葉に、蔦彦は
「勿論です。」
と強く答えた。自分以外のゲイと生まれて初めて言葉を交わすことができ、蔦彦は心底開放感を味わっていたのだ。
青年はニコッとわらうと、
「僕は緑爾っていうんだ。よろしくね。」
と名乗った。蔦彦は
「僕、蔦彦です。」
と本名を名乗ってしまう。すると緑爾と名乗る青年は
「ところで蔦彦くん。君、時間はいいの? もしよかったら、もう少しこの街を案内してあげるけど。」
と尋いた。はっとした蔦彦が時計を見ると、もう九時だ。考えてみたら新宿駅に着いたのが五時で、デパートを出たのが六時半頃だったのだから、当然のことである。
「ひぇ〜、どうしよう。今すぐ帰ってもどうせ怒られるから、電話入れてから終電で帰ります。」
と答え、携帯電話を持たない主義の蔦彦はレジの横のピンク色の電話に走っていった。
蔦彦と緑爾は、「La Servilite(ラ・セルヴィリテ)」というバーの扉を押すと、並んでカウンターに座った。すると髭を生やした三十過ぎのボウタイ姿のマスターがおしぼりを持ってきて、
「あらー、みどりちゃんいらっしゃい。今日はまた飛びっきり可愛い子を連れてるじゃないの。」
といった。その喋り方に蔦彦は少し怖気づいたが、緑爾は何でもない様子で
「違うんだよ。この子はさっきナンパしたんだけど、もう好きな子がいるんだって。」
と答えた。「そうか、僕はナンパされたんだ。」と、蔦彦は妙な風に感心し、
「ありがとう。」
といっておしぼりを受け取った。見るもの聞くもの全てが珍しく、新鮮だった。他の客も皆きちんとした身なりで、良識的な人ばかりのように思えた。マスターだって変な喋り方だけど、優しそうだ。
「あらそう、この子今日が『二丁目』デビューなの。じゃあ私おごっちゃうから、何でも好きなものを頼んで頂戴。」
とマスターがいった。蔦彦ははにかみながら、
「ありがとうございます。でも僕お酒は飲めないから・・・・・・。」
と言いかけると、
「あら解ったわ。じゃあ初心者向けの甘いのにしてあげるわ。みどりちゃんはいつものでいいわね。」
といって、何やら作り始めた。
「本当は、もっと若い子ばかりが集まる店もあるんだけど、僕はここの方が落ち着くからよく来るんだ。」
緑爾が言った。
「そんなにしょっちゅう来るんですか?」
と蔦彦が聞くと、
「うん、十日に一度ぐらいかなぁ。」
と答え、自分の身の上を語り始めた。聞けば緑爾は二十一歳で渋谷にある有名私大の三年生、神戸出身で今は青山のマンションに一人で住んでいるということだった。蔦彦は第一印象はチャラチャラして軽薄そうな奴だと思ったことを言って詫びると、笑い飛ばして許してくれ、
「そんなにチャラチャラしとぉかなぁ? うちの学校じゃ地味な方やけど。」
と急に神戸弁になる。
「お待たせ。」
と言ってマスターが二人のグラスを運んでくると
「はいこれ、とっても甘くて美味しいのよぉ。みどりちゃんはいつものドライサックシェリーね。それじゃ、ごゆっくり。」
と言ってまた他の一人客の相手をしに行った。
「『みどりちゃん』って呼ばれてるんですね。」
と蔦彦が言うと、緑爾は苦笑しながら
「まぁ、こんなところでは大体こういう呼び方されちゃうんだよなぁ。君なんかさしずめ『お蔦ちゃん』か何かにされちゃうぜ。」
と言って笑った。蔦彦もつられて笑いながらグラスに口をつけると、
「わぁ、美味しい〜。」
と驚いたようにいった。緑爾は
「ここのマスターはカクテルの名人なんだぜ。とてもお酒とは思えないだろ。沢山飲みな。」
と奨める。
知らぬ間にグラスに四杯も飲んだろうか。蔦彦がトイレに行こうと立ち上がると、地面がぐにゃぐにゃになったように感じ、そのまま倒れそうになるところを緑爾に支えられた。何とかトイレに行って帰ってきたが、もうフラフラの様子である。
「あらら、随分と酔っ払っちゃったみたいだね。わりと言葉がしっかりしているから僕も気付かなかったけど、酔いが足にきちゃったんだねぇ。」
と緑爾がいう。蔦彦は
「大丈夫です。すみません。」
と言いながらもまだフラフラしている。
「しょうがないなぁ。これ、酔い醒ましにすごくよく効くんだよ。飲んでごらん。」
緑爾はそう言って、ピルケースから銀に細く青い線の入ったアルミ包装の錠剤を出し、蔦彦に渡した。蔦彦はマスターから貰った水で、その小さくて青い楕円形の錠剤を飲み込んだ。
「酔わせた僕にも責任はあるし、まだまだ歩けないだろうから、こんばんは僕んちに泊めてあげるよ、いいね。」
と緑爾にに言われて、ついつい頷いてしまう蔦彦であった。