旧コラム抜粋


アララギイズム

 「アララギ」が消滅して二年近くが経つた。 かつて共に切磋琢磨した仲間は今「短歌21世 紀」、「青南」、僕の所属する「新アララギ」 の三誌に別れて活動してゐる訳であるが、早 くも随分とその違ひが現れてきたやうだ。今 回「短歌21世紀」からの歌評依頼を受け同誌 を精読してみて、ますますその感を強くした。
「未来」や「塔」など早くに「アララギ」から 別れた結社は“アララギ派”と総称される中 にあつても実際には既に遠き存在だが、この 三誌もいずれそのやうに差異を際立たせてい くのであらうか?
 ウィング21の作品群はこの問題を考へる時、 材料として最も適当であつた。若い作者が多 いだけに総じてまだまだこなれてゐない、未 熟な作品が多い。しかしそれゆゑ多くのこと を読み取ることが出来たのだ。

  鳥と犬と私の靴の鳴く音が響き渡れり雪 国の朝を  本間美穂

擬人化が過ぎ、言葉が上滑りしてゐる。この 作者に限らず、少女趣味を一歩も脱してゐな い軽い作品が目につく。最初のうちはそれで いいが、このレベルにいつまでも留まつてゐ ていいといふものではない。多くの若い仲間 がゐることはライバル数多といふ意味で大変 羨ましいことであるが、しかし周りのレベル に安心し進歩が滞るといふ弊もあらう。個々 の自覚が問はれる。

  灯を消せば春の宵闇明るくて内なる女の 声をききおり  小松桂子

「内なる声」など、最早手垢のついた表現であ る。夫以外の男への恋慕の情といふテーマ自 体が古めかしく、月並みといへる。

  水面が凍ってしまったかめの中小さなメ ダカがのっそり泳ぐ  添田 杏

これなど解り易く、共感できる作品である。 しかし「のっそり」が成功してゐるか? 素材の 面白さに寄り掛かり過ぎたのが惜しまれる。

  憧れと希望の交差なす心それだけ持ちて 海を渡ろう  小杉絵美

「持ちて」といふ文語と「渡ろう」といふ口 語を並べるなど、内容を論ずる以前の問題で ある。この作者は「青い風」、「青春」など歌 謡曲調の用語が多いのも気になる。

  誰に会ふこともなく臥す母なれどパーマ かけたしと幾度も言ひき  小川優子

拙作に「誰に見せる訳でもなきに独房に身だ しなみをば整えてゐる」といふのがあり、つ いつい深く共感を覚えた。本欄のベテランに 属する作者だけあつて、具体的でありつつも 報告に留まらぬしつかりとした感動がある。

  埃たつ階段ゆっくり降りながら春には鬱 といふ字が似合う  井上佳香
  風呂場へとわが抱きてゆく子の肌に生ま れし日ほどの温もりのなく 一首目の旧仮名新仮名ごちゃ混ぜには賛成し 兼ねるが思はず

ドキッとさせられる内容であ り、まさに現代的である。しかし奇を衒つた ところは少しもなく、具体的であり、極めて 平易である。

赤土の崖は湿りにも映えいたり露を道へと落 とす草をも  鈴木直子

時代が如何に変はらうと、読み手に強く訴へ かける力を持つ歌こそが秀歌であらう。独り 善がりの意味不明歌に歴史を生き抜く力があ るとは思へない。この作品の如くあるがまま を詠む写実主義の力は、たとへばらばらの結 社に別れても消えるものではない。そしてそ の力こそがアララギイズムなのである。
≪以上は、同じアララギ系の短歌結社である「短歌21世紀 2000年8月号」よりの転載である。≫


関西弁へのこだわり〜マスメディアによる言語帝国主義を愁う

このホームページは、言うまでもなく五人で共同運営されている。めみをが埼玉県川越市の住人である以外は全員兵庫県、それも神戸・阪神地区に住んでいるのだが、実は関西人は僕とマサキの二人だけだ。ハルは練馬大根で生まれ育った江戸っ子(三代続いてはいないが)だし、まさやに至っては埼玉県K市に生まれ、小学校の途中から兵庫県A市で育ち、大学に入ってからは兵庫県尼崎市、但しその直後ご両親は転勤により本来の本拠地である東京に引き上げられた、という複雑さである。従ってめみをとハルは関東弁ネイティブだし、まさやも関西弁は上手いがマザータングは関東弁という人間で、関西弁ネイティブは僕とマサキの二人だけなのである。
とはいえ三十五歳の僕の世代でも、最早美しい正統派の上方言葉は喋れない。谷崎潤一郎や田辺聖子女史、山崎豊子女史、宮本輝氏などの作品世界に窺い知るだけである(アクセントは関西アクセントだからそういう作品の朗読は上手いが)。せいぜい「じゃりン子チエ」の世界、大阪の下町言葉ならまだ何とか使いこなせるかもしれない、という程度なのだ。
それでも気になるのがマサキの世代の言葉の乱れ、関西弁の乱れなのである。
僕は三代続いた関西人である。自分が生まれ育った故里である阪神間「細雪」文化圏の文化をこよなく愛しているし、その言葉にも格別の愛着がある。日本国に対しては愛国心など欠片もないが、しかしその分関西は大好きで、自分のナショナルアイデンティティーは帝政日本ではなく関西共和国にある、と公言している人間なのだ。従って関西人が共通語(標準語)を話すところまでは許せるし、共通の意志疎通のための人工的言語としては共通語の価値を認めてはいる。しかし関西人でありながら関東弁的言い回しをする輩に対しては、時代錯誤ではあるが「非国民」と罵声の一つも浴びせたくなるのである(笑)。
一口に関西弁といっても近畿二府四県及び三重県伊賀地方・東紀州地方という広大なエリアで話されている言葉であり、地域による差はかなり激しい。京都弁、大阪弁、神戸弁は勿論違うし、例えば同じ大阪でも上品な船場の商人言葉と河内弁は全く違う。それでも一つの文化圏として、共通の言語的特徴を有するのが関西弁なのである。関西というのは単に地理的、経済的に結びついているだけだけのエリアではなく、共通の言語、文化、歴史によってより深く結びついているのだ。
然るに、今の二十歳前後以下の世代の関西弁には本来関西弁にないはずの関東弁的言い回し、それもかなり下品なべらんめぇ系の言葉が相当に紛れ込んでいる。マスメディアの功罪のうち、罪の最たるものであろうが、東京中心の情報文化帝国主義の悪影響である。本人達が気取って、イキッて東京弁の真似をしているのならまだいい(東京弁を格好よいと思って真似することは大変な田舎者根性で褒められたものではないが)。そうではなく、本人達はあくまで自然に関西弁で喋っているつもりなのだから、実に苦々しくも由々しき事態という他はないのだ。会話の随所に「すげえ」だの「食いてえ」だの「うるせえ」だのといった下品極まりないべらんめぇ調が混じるのだ。聞くたびに注意しているが、全く持ってきりがない。
関西人が関西弁で喋っている限りは「細雪」の登場人物は勿論、どんな下町のどんなに柄の悪いおっさんでもやくざでも、絶対にベランメェ調で喋ったりはしない。はるき悦巳氏の漫画「じゃりン子チエ」のテツでも、今東光和尚の小説「悪名」の主人公『モートルの貞』親分でも、中場利一氏の小説「岸和田少年愚連隊」でも、とにかく関西弁は絶対にベランメェにはならないのだ。しかも関東においてさえ、少なくともまともな教養のある人間が公式の場でベランメェ口調を使うようなことはあるまい。
それなのに、僕が「ちゃんとした関西弁で喋れ」と注意すると、「すげえは関西弁ではないのか?」とか「標準語ではないのか?」 と驚かれることがあって、頭を抱えてしまう。特に後者は、共通語(標準語)と関東弁を同一視している分タチが悪い。方言や敬語といった言葉遣いは学校教育ではなく家庭教育の範疇に入るのだろうが、日本の家庭の教育力の低下、もうどうしようもないところまできてしまったのだろうか?
せめて意識の高い人間は、東京による言語帝国主義に対して自覚的に抵抗を始めるべきではなかろうか? これを読まれた皆さんにも、強く訴えたい。各々、生まれ育った地方の方言を大切にして下さい、と。(二千一年四月二日)